2011年11月04日

ブログ引越しのお知らせ

「十思」のつづきになる「九徳」は、こちらのブログに掲載いたしますので、ご覧ください。

今後とも、「ココロまいるど」をよろしくお願いします。   自然真人



posted by 自然真人 at 00:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

十思の十

「罰を加えようとするときには、怒りによってむやみに刑を加えることがないようにと思う」

 怒りは心を汚してしまいます。ですから、怒りを心から消滅させたいのですが、生きているものの定めとして怒りの種はなくなりません。条件がそろえば、怒りの感情は生じます。問題なのは、その怒りの感情を大きく育ててしまうことと、なかなか手放せないことです。
 怒りの感情を育ててしまい、手放すことをしなければ、怒りの対象を傷つけて破壊するまでは治まりません。特に、怒りの対象が自分であれば、自分自身を傷つけて破壊します。
 他のものを傷つけ破壊する行為は、そのものが生きる権利、存在する権利を侵害するものです。同じ世界に生きるものとして、許されることではありません。ですから、社会的に罰せられるのです。

 とはいえ、行き過ぎた罰は、罰を与えた人の心も汚してしまいます。罰を与えられるようなことをした人の心はすでに汚れていますが、罰を与えられることによって更に余計に汚れることになります。
 それだけではありません。罪を犯したことに対する怒りから罰を与えた場合、その心は怒りの状態にあり、汚れています。怒りから発した罰には相手を傷つけようとする意図しかありません。罰せられる人に精神的、肉体的な苦痛だけを与えます。それは、怒りにまかせ罰を与えることに喜びを感じる人の自己満足に過ぎないのです。ですから、罰を与えた人の心も汚れてしまうのです。
 これでは、罰を与えた本人が罰を受けていることになります。

 また、このような、懲らしめのために与えられる罰では、罰せられる人の心はまだ怒りにあり、汚れた心は汚れたままです。なぜ罰せられているか、全然理解できていないのです。罰せられる本人の心は、変わりようがありません。

 どうしたら、罰せられる人が変わろうと思ってくれるのでしょうか?
 
 自分の中にある悪いことをした汚れた心に気づかせ、自分を変えようとするきっかけを与えることが、罰を与えるということです。これが悔い改めるということです。
 自分のなした行為に気づき、その行為をさせた心に気づき、その心を罰せられているのだと納得する。これがなければ、罰せられた人は変わりようがありません。

 心が汚れ、罪を犯したことは残念なことです。当然の報いとして、何らかの罰が与えられます。でも、心が汚れていなければ、心が汚れなければ、なかったことです。
 そして、心は清くできます。心が清くできれば、その人はもう罪を犯しません。

 ですから、罪を犯した人を悔い改めさせ清い心に変える罰は、汚れた心に気づき、清い心に変わることを願う慈悲の心から与えられます。それが、罪を犯した人を善の心に導く罰の与え方です。
posted by 自然真人 at 11:28| 十思 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

十思の九

「恩恵を加えようとするときには、喜びによって賞を誤ることがないようにと思い、」


 何であれ人のためになるものを贈ることはよいことです。ためになるものとは、もらった人や生きものがよりよく生きるために役に立つもののことです。

 2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震の際に、復興のための義捐金として、1等の当選した宝くじを贈った人があったようです。贈り主はどこのだれだか分かりません。どういう経緯で届けられたのか分かりませんが、当選金が復興に役立ったことには違いありません。
 ところが、同じように宝くじで1等が当たった人でも、人生を狂わせる人もいます。

 いわば運によって受け取った宝くじの1等でも、自分の独り占めにせず、さらに多くの人に役立ててもらうために差し出して、生き金にする人もいれば、自分で独り占めにして、さらに自分の欲を満たそうとし、その結果、身の破滅をもたらすような、死に金にする人もいます。

 よかれと思って人に贈っても、受け取った人が役立てることができなければ、贈った行為自体がよい行為ではありません。また、贈ったものと量が、受け取る人にとって過分のものであっては、過ぎている分だけ無駄になり、ときにはそれがもとで様々な欲望を引き起こしてしまい、逆効果になることもあります。
 この場合、本当に相手のためを思って贈ったことにはなりません。ものや言葉を与えて自己満足を得るためだけの、つまらぬ行為にすぎないのです。相手のためと言いながら、実は自分のためなのです。
 人に贈り物をするときには、受け取った人にとって、よりよく生きることに役立つかどうかを考えないといけません。相手のことを考えず、自分の感情を満足するために贈ることは、かえって相手に悪いことなのだ、ということを忘れてはならないのです。

 贈ること、差し出すこと、与えることが善の行為となるのは、自己満足のためでなく、相手がよりよく生きるために役立ったときです。受け取った相手が確かに自分を改善し向上させて、よりよく生ている喜びを感じられるかどうかが大切なのです。
そして、この受け取った人の喜びを、自分もともに喜べるとき、贈るという行為は自分のために贈ったことにもなります。

 このとき、自分も相手もともに喜び、よりよく生きることに役立つ、最高の贈り物となるのです。
posted by 自然真人 at 17:08| 十思 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月16日

十思の八

「讒言をする邪悪な臣があるのを恐れるときには、身を正しくして悪を斥けることを思い、」

 他人の悪口や噂話ばかりをする人がいます。
 その人は、悪口や噂話で自分の心がますます汚れていることに気づいていないのです。その話が悪口や噂話をされた当人に届けば、その人の心が汚れますし、何より悪口や噂話を言うたびに、自身の心を汚していることに気づいていません。それだけでなく、悪口や噂話を聞いた人の心も汚してしまいます。悪口や噂話だけではありません。心を汚す行為は、関わる人々すべての心を汚しているのです。
 心を清らかに保つための一番の方法としては、このような人たちとは距離をおき、関わらないようにするのが一番ですが、日常生活や仕事においては、どうしてもお付き合いしなければならないこともあります。この場合には、自分の心が汚されるのを最小限にとどめなければなりません。悪い心の影響を受けないようにするのです。

 ところで、悪口や噂話をする人は、その人のすべてにおいて悪いのでしょうか?
 生まれてからいままで悪口や噂話をいいつづけているのでしょうか?

 いまの心のありかたや身の回りの状況が、ついつい悪口や噂話をさせているのかもしれません。
 その人のおかれている境遇など、悪口や噂話をするに至った原因をはっきりと把握できないならば、その人を「悪い」いろ一色で染めてはいけません。

 たとえば、夏の盛り。毎朝夕に植木鉢へ水やりをしているとします。その植木鉢にポトスのように水をたくさん必要とする植物が植わっていれば、その植物は元気よく育ってくれるでしょう。ところが、サボテンが植わっていたら、たちまちサボテンの元気はなくなり、二三日のうちに腐ってしまいます。毎朝夕に植物へ水をやるという行為も、ポトスのように善い結果となる植物もあれば、サボテンのように悪い結果となる植物もあります。
 同じように、人は他人に善いことをしていることもあれば、悪いことをしていることもあります。どんな人でも、万人に対して善人であるわけではなく、万人に対して悪人であるわけでもありません。
 この人は善い人、この人は悪い人、という単一のレッテルを貼るべきではないのです。この人は、こういう人なんだと、人のまるごとを受け止めることが大切です。人は善悪の両面をもっているのです。

 悪口や噂話など、心の汚れる状況から避けられないときには、心を汚そうとする人の善い面を意識し、悪い面の影響を受けないようにすればよいのです。

 とはいえ、多くの時間をその心の悪い面とかかわるようであれば、影響を全く受けないようにすることはできません。できることなら、その悪いものを善いものに変えることができれば、悪い影響を受けないように気をつかいつづけなくてよくなります。
 また、悪口や噂話そのものを注意することもできますが、悪口や噂話そのものは、話すという行為の結果です。結果に働きかけても、その原因は変えられません。ここは、悪口や噂話そのものに働きかけるのではなく、悪口や噂話をする心に働きかけるのです。心の汚れた人として退けるのではなく、汚れた心を清い心に変えるようにするということです。

 そのためにも、自分心は正しく保たねばなりません。自分の正しい心だけが、人の悪い心を正しい方向に導くことができます。
 ですから、まず自分自身の心が善い心にあるかを常に観察しなければなりません。

 では、悪い影響を受けないようにするには、どうすればよいのでしょう。
 たとえば、悪い言葉を聞くとします。それは、耳にとどいた音にすぎません。その音に解釈を加えて、感情を引き起こすことが心を汚しているのです。ですから、五感を通じて受ける刺激は感覚で止め、自分にどんな感情がおこっているのか観察をつづけるのです。感情に気づけば、その感情に執着しないようにします。そうして、心が汚れないような自分でいられるならば、心を汚すような言葉を吐いていた人も聞いてくれる人がいないことを知り、やがては心を汚す言葉を口にしなくなります。徐々にですが心の汚れる頻度が減り、加えて、その人に自分自身への気づきがあれば、清い心に変わっていくでしょう。

 このように、この人は善い人で、この人は悪い人だ、と区別するのではなく、どのような人であっても、悪い心を斥け、善い心を養うように働きかけるのが、まことの指導者です。
posted by 自然真人 at 01:18| 十思 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月27日

十思の七 その二

(前回からのつづき)

 たとえ話をひとつ。
 虹は、空中の水滴によって7つの色に分けられたものです。
 自然の光は無色透明のようですが、内部にはいろいろな色の光が混ざっているのです。
 自然の光にフィルターを通せば、いろいろな色に分けることができます。逆に、フィルターを通すことによって、単独の色しか見えないようになってしまうともあります。
 本来の色で物事を見ようとするならば、フィルターを通して光を見てはいけないのです。

 このことを、コミュニケーションに当てはめてみましょう。
 自分の感情や価値観や人物評価などのフィルターを通して人の話を聞いていては、その人の話の本当に言いたいことを正しく知ることはできないということです。

 話を聞くという場合、話の内容を把握することだけを思いがちですが、それは違います。
 私たちが人の話を聞くときには、話している内容のほか、話すときの口調、声の高さ、話しているときのしぐさや態度など、言語に関わること以外からも多くの情報を受け取っています。これら五感から得られる情報を総合的にまとめて「聞く」という行為を行っています。
 ですから、正しく聞くためには、五感から得られる情報に、フィルターを通した偏った色がつかないようにしなければならないのです。

 しかし、人の中に自分というものがある以上、感情をなくすことや価値観を持たないようにすることはできません。
 そこで、よいコミュニケーションのためにできることは、フィルターを上質なものにすることです。汚れのない清い心をフィルターとするのです。そのフィルターを通して人を観る。偏りのない心で人を観るのです。

 では、偏りのない心にあるにはどのようにすればよいのでしょうか?

 心の状態は、安定していて穏やかであることです。聞く人がいろいろなことに気をとられていて、話を上の空で聞いているようでは、聞いている状態にすらなっていません。
ですから、自分が人の話を聞く状態になっているかが前提として求められます。話を聞く状態にあれば、この人は私の話を本当に聞いてくれる、聞いてくれているという安心感が、話す人におこってきます。この安心感のもとで、話す人と聞く人の間に信頼関係が構築されます。

 信頼関係を築くためには、相手を批判的な目で見てはいけません。自分の価値観や相手に対する評価などで、視野を狭めて話す人を見てはいけないのです。
 視野が狭まった時点で、立派な人柄だとか、言い回しのくどい人だとか、大げさに表現する人だとか、よい意味でも悪い意味でも、自分の好みの「話す人」のイメージをつくってしまいます。そのイメージが邪魔をして、話す人の本来の姿を掴めなくしてしまいます。
 そのような状態から得られる気づきも、限定されたものになってしまいます。話す人の見えない部分が多く、本来の状態に気づくことはできません。話す人の言葉をあるがままに受け止めることができないのです。

 このように、自分が間違った色眼鏡で物事を見ているのではないか、自分の価値観や評価などに執着していないかを常に意識して、穏やかで安定した慈しみの心で、人に対して無批判に接し、客観的な目で物事を観ることが、コミュニケーションには必要不可欠なのです。
 そして、このようなコミュニケーションが、健全で豊かな組織にするのです。
posted by 自然真人 at 23:42| 十思 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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